靖国問題でのやりとり。

kousさんにていねいなコメントをいただいたが、これ以上お腹を痛くさせてしまうのもアレなので、短めに僕としてコメントしたい。

まず「教養」と「倫理」について。kousさんのおっしゃることもよくわかるし、「倫理」といってもいいような気もする。ただ、kousさんも注意深く書いているように、ネット上の「B層」が、現実生活の上で必ずしも非/反民主主義的であるとは限らないだろうし、おそらくほとんどの人は普通に社会生活を営んでいるんだろうと思う。そういう意味では「倫理」はみな持っていて、現実に放火現場で石を投げようだなんてヤツはまずいないだろう。つまり、最低限の「倫理」はみな持っていると僕は信じていて、ただ、ネット上であれ自らの意見を言論によって主張しようとする際の「教養」が足りないのではないかと僕は考え、ここでは「教養」と表現した。

「論理が不自由」な人については、僕も仕事柄そういう文章をそれなりに見ているつもりで、10代の子たちで言うなら、数年前なら保守的な立場っていうのは、海外に留学して苦労したりあるいはもともと政治や歴史に関心のある自覚的な人たちが選び取るものだったんだけれど、最近では、さほど勉強しているようにも思えない普通の女の子が、こっちがびっくりするくらい保守的な意見を無自覚に書いたりする傾向はあるように思う。ただ僕は、自覚的に保守的立場を選び取る人たちとは異なって、そうした人々が「「失われた日本らしさ」を何とか取り戻したいという切なる願いの現われ」だとはちょっと思えなくて、もっと別の分析が必要だと思っている。


立場の違いはともかく、もっとも見解が異なっているのは、戦前に対する評価だと思う。とはいえ、戦前といっても時期によって相当の違いがあるので、必ずしも議論で共通認識ができるとは限らないと思うけれど、僕がこの間「戦前」という時にイメージしていたのは、少し書いたように1930年代、5・15や2・26のみならずテロが多発するとともに、政府の言論弾圧があからさまになってきた時期の社会の雰囲気を念頭においている。

「戦前」という時代に対して何を思うかはいろんな見方があると思うけれど、少なくとも「言論」という問題に限って言えば、戦前における言論の不自由さは明らかだし、さらにそれが1930年代、より苛酷な圧迫が加わったことも事実だ。その中で、やはりテロの頻発が言論の自由を浸食していった側面は否定できない、というか、むしろこの時代を特徴づける動きだろうと思っている。まあ大雑把な括りではあるけれど、だからこそ、時代の空気といったものとして、今のところ僕は「戦前」を肯定的にとらえようとは思わないし、その点ではおそらく、現時点では見解は一致しないかなと思う。


それから靖国神社そのものについての評価は、やはりkousさんとは決定的に異なっている。僕には靖国が庶民の神社だなんてとても思えない。歴史的にも陸・海軍の神社であって、戦死者・「国事殉難者」を祀るというその機能の仕方が国民の創出という意味においてまさに近代国家的ではあるけれど、それは江戸時代までの神祇信仰という在来種に洋木を接ぎ木したらぐんぐん伸びちゃって、まるで在来種のように見えるってものでしかないと思う。これも、書き始めると止まらなくなるので、この辺でとりあえず止めておこう。

なんだか全然短くないな…。長くてすいません。