検察に「恣意」はないのか。

今日の晩ごはんは親子丼、キャベツの塩もみと貝割れのサラダ、豆腐とワカメのお味噌汁。ちょうど作り終わった頃に報道ステーションが始まった。親子丼を食べながら番組を見てたら、検察取調べにおける録画についての小特集があった。検察側は、裁判員制度の導入に関連してあくまで補助的な目的で一部を録画しようと考えるのに対し、日弁連は一部を録画することにより恣意的に証拠として採用されることを懸念し、全面的な録画の必要性を主張していた。

こうした対立そのものはある程度理解できるんだけれど、驚いたのは検察側である次長検事のコメントだった。恣意的に運用される怖れはないのかとのインタビュアーの質問に対し、検事次長は「検察は国民の負託に基づいて業務を行っているのであるから、恣意的な運用などはありえない」とのこと。

「国民の負託に基づいて業務を行っている」という責任感は必要だし、そういう意識は大いにけっこう。けれども、問題はそんなことではなくて、制度として検察の恣意的運用の可能性はないのか、ということだろう。その答えとして、制度的な担保も何もなく「ありえない」だなんて、まったく馬鹿にした答えだとしか思えない。

政治家は「国民の負託に基づいて」政治に携わっているから「汚職などありえない」と言ったところで、単なる心構えの表明に過ぎないし、現実問題として誰が信じるだろうか。政治資金規正法などの制度によってはじめて、「ありえない」ようにしているのだ。

この小特集のどの部分よりも一番検察を危うく感じたのが、次長検事のこのコメントだった。この論理でいけば、検察が「人権を尊重している」と言えば検察が何やったって「人権を尊重」していることになっちゃう。要するに、録画した映像を恣意的に使わない制度的な担保は何もないということを、いみじくもここで白状してしまったようなものだ。まあ、このコメントが次長検事の発言全体の中でどういう文脈だったのかによっては、まったく違う解釈になるかもしれない。けれども少なくともあのVTRでは、検察の姿勢は少なくとも僕には、人権をきちんと守ろうという姿勢にはとても見えなかった。