知識が理解を妨げる。

歴史学に限らずとも、学問というのはある側面では「知識」の体系だから、その知識を習得していくことが、ある側面ではその知の体系を理解することにつながっていく。「知識」が理解を妨げるなんてこと、あんまり感じることはなかった。けれどもそういう認識は、ある一つのディシプリンに閉じた、ナイーブで「幸せ」なものでしかないのかもしれない。

アマゾンを見てて、女性学やジェンダー論の本をたくさんレビューしてる人がいた。てっきりその人はそうしたジャンルに理解が深いのかと思いきや、そうした学問の方向性に対してまったく否定的なひとだった。家族揃ってディズニーランドに行くようなのが幸せで、多様な家族のあり方なんて失敗した家族に過ぎないってことを、そのレビューの中で繰り返し語っているのだった。片親や共働きへの露骨な否定的評価、社会的な場面で現れる性差の生物学的決定性など、ジェンダー論の考え方とは対極にある考え方だ。

その一方で評価の高いのがいわゆるビジネス書だってところに馬脚が現れてると思うのだけれど、それはともかく、女性学の本をたくさん読むことが、かえってその学問分野に対する偏見ないし無理解を増幅させる、そういうこともあるのだなあと改めて考えさせられた。

そういう人にとって、ジェンダー論の「ことば」なんてまったく届かないんだろうな、と絶望せざるをえない。「知識」というものをどのようにとらえるかによって、こうした事象の解釈も異なってくるとは思うけれど、本に書かれている思想を否定するためにしかその本を読まない人たちにとって、そうした本から得られる「知識」とは、その知識の属する知の体系を否定するための材料でしかない。そういう読書をはたして本当に「読書」と読んでいいのかどうかも疑問だけれど、でも、それではたして「対話」は成り立つのだろうか。もしかすると、世の中で「議論」と呼ばれているもののある部分は、結局こうしたことなのかもしれない。

ただ、もしかすると救いになるかもしれないことは、そういう人が書く批判の文章は、書けば書くだけ、その批判の有効性よりもむしろ自らの偏見・固定観念が顕わになってきている。考え方や立場は違うけれど論理は理解できる、というのではなくて、その人のものの考え方のどこにボトルネックがあるのかが次第に明らかになる、というような感じだ。もしかしたらその点にこそ、皮肉にもそうした人々との対話の可能性があるのかもしれない。自戒をも込めて。