「徹夜のナルシズム」かあ。

こちら経由でこちらの記事それへの意見などを読む。うーむ、昨日僕が考えてたことだな、これ。

確かに、「最後まで手を入れようとする」ような、ある意味“徹夜”的な努力は、結局単なるナルシズムである場合もあるだろう。ただ、徹夜してまで仕上げようとするものがどういうものなのか、というところで、どうも見解が変わってくるような気がする。「徹夜のナルシズム」の例はテスト前に英単語を覚えることだけれど、こういった仕事は、一定の成果をもって「成功」ないし「完了」とするような性格の強い仕事だと思う。確かにそういう時、徹夜してがんばったからと言って、「結果」を出せるもんじゃない。

けれども、文章とかプログラムとか、そういった“作品”的要素の強い仕事だと、そもそも何が「結果」なのかというところで、そもそもよくわからないところがある。「「徹夜のナルシズム」のナルシズム」には、だいぶ精神主義臭いところがあるし、何が数学的に証明されてるのかさっぱりわかんないけれど、仕事を一つの作品として見る時の考え方としては賛同できる。仕事に対して、「徹夜」してもこだわりを貫くといった、細部や余剰な部分へのこだわりがないまま淡々と結果を出そうとする人のことを、僕はどうも信用できないところがある。まあ、他人が「淡々と」結果を出してるかどうかなんてわかんないんだけど。むしろ、自分自身がこだわっちゃうんだな。やっぱり、その仕事をよりよいものにしたいという思いはあるから。

最終的には結果だ、というのは理解しているつもりだけれど、その「結果」がよほど卓越したものでない限り、少なくとも僕は、やっぱり「徹夜」しちゃうんだろうなと思う。ただ、そういう心がけを、他人に強制したり他人に対する評価として導入しようとする時、あるいは、自分への言い訳にしてしまおうとする時、ちょっと変なことになってくるのかもしれない。

そうそう、ところでこの「徹夜のナルシズム」ってこと、糸井重里が言ったっていわれてるんだけれど、出典が確認できないんだよなあ。もし糸井氏のようなクリエイターがこの発言をしたんだったら、どういう意味でこういう発言をしたのか、もうちょっと詳しく知りたいな。