監視カメラのある社会。

全然知らなかったニュースなんだけれど、ダウンタウン松本人志が、防犯カメラの画像を勝手に使われたとして写真週刊誌を訴え、勝訴していたことを、こちら経由で知った。記事そのものはちょっと古いけれど、たまたま仕事でこのネタ扱ってたもんだから、僕的にヒットなネタだった。

ダウンタウン松本、勝訴…AV店映像「受忍度超える」

 アダルトビデオ店の防犯カメラに写った映像を写真週刊誌「FLASH」に掲載され、プライバシーを侵害されたとして、タレントの松本人志さんが発行元の光文社と編集人に1100万円の賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は31日、90万円の支払いを命じた。

 判決理由で深見敏正裁判長は「防犯カメラの映像は、週刊誌などに掲載されることは想定されていない。原告が羞恥(しゅうち)心を覚える写真を掲載することは受忍限度を超えて違法だ」とした。

 判決によると、同誌は昨年3月29日・4月5日号で、アダルトビデオ店でビデオを選んでいる松本さんの姿が写った防犯カメラの映像を掲載した。
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芸能人の肖像権やプライバシーといった枠組での反応が多かったようだけれど、監視カメラや監視システム、あるいは監視社会の問題としてとらえる時、この事件は、監視カメラによって24時間監視される社会の方向性を、象徴的に示しているように思う。

監視カメラの問題は、たとえばNシステムや犯罪捜査を名目とした監視カメラビデオの濫用など、権力がいかに市民を監視しようとし、それに市民がどのように対抗していくのか、という視角から語られていたように思う。確かに、市民一人一人がどのように監視されているのか、また監視という行為がどのような目的に活用されているのかわからないまま、公権力が監視システムを恣意的に利用することの危険性は理解できる。たとえば市民一人一人の行動や思想が、犯罪“予防”という大義名分によって、監視カメラや指紋採取・カード類の記録や携帯電話の電波送受信記録といった形で監視される。そういった危険性は、アメリカにおける911以降のブッシュ政権の動向をふまえれば、ありえない話ではない。

けれども、旧ソ連や東欧の旧社会主義国家のような、権力によるあからさまな市民の監視というわかりやすい構図は、いくら現代が大量情報を処理できる社会だからといっても、政府にそれだけの情報解析要員を配置して監視行為を行うのは膨大なコストがかかり、必ずしも現実的ではないように思う。

むしろ今回の事件にみることができるように、市民個々人が監視の客体であるとともに主体ともなりうること、監視カメラの設置・管理者が、あらゆる市民を監視してやろうなんていう大きな意図などないまま「安全のため」ミクロに監視システムを機能させていること、そして、そういったミクロな監視システムの総体が、結果的にはくまなく監視カメラで覆われた監視社会を形成すること……政府が膨大なコストを掛けなくてよい分、こちらの方が現実的な方向性であるように思う。

「悪いことをしていなければ、見られたってかまわない」という人がいるかもしれないが、ミクロな監視システムの管理者・運用者の中には、編集技術などを用いて嫌なヤツを陥れるような悪意のある者がいないとも限らない。そしてその悪意を現実に作用させるかどうかについては、管理者・運用者の心構えに委ねられているとしか言いようがない。それが個人的なトラブルのレベルであれば、管理者・運用者の責任が問われるだろう。

しかし、「安全」「正義」のためという大義名分があるならば、監視カメラの画像を個々の管理者・運用者が解析しようとするだろう。「安全」や「正義」の中身が深く検討されることもないまま、時流に抗したり少数意見を発表する人が“ワイドショー的に”ターゲットになる時、社会のあらゆるところでミクロな監視システムが発動され、その人の行動が逐一監視され、批判・非難される。おそらくその時、管理者・運用者は正しいことをしているつもりになっているだろうし、社会の側もそれをプライバシーの侵害だなどと言って止めることはしないだろう。今はテレビカメラくらいしかやっていないようなことを、社会全体がやるようになる。

公権力が膨大なコストを掛けて監視などしなくても、ちょっとマスコミを煽ってやれば、たちまちミクロな監視システム群が作動し、社会全体として“そいつ”を追いつめる。別に芸能人や有名人じゃなくてもいい。「ニートは悪いヤツだ」「オタクなんて必要ない」「こんな格好のヤツは不審者だ」それだけで、社会のあらゆるところにくまなく張り巡らされた監視システム群が作動し、“そいつ”の逃げ場を奪う。そちらの方が、よっぽど怖い社会であるように思える。そして、僕たちの社会がそういう社会になるまで、もしかすると、あと一歩のところまで来ているのかもしれない。