「貧乏人は故郷を捨てろ」か。

バブル崩壊以降、地方経済が衰退したと言われて久しい。それを象徴するのが、地方都市商店街の崩壊だろう。また今年の大雪によって、山村地域の過疎の危機的な状況が改めて浮き彫りとなった。こういった状況を見て、なんとかしなければいけない、けれどもなかなか名案は浮かばない、というのが大方の人の考える“常識”だと僕は思っていた。

けれども、「経済学的」にはそうではないらしい。慶應義塾大学助教授の土居丈朗氏は、2006年1月16日号のJMMで、「地方間の格差の原因は「自助努力の差」だけか?」という問いに対して、以下のような文章を寄せている。少し長文になるが、引用する。

 個人の所得格差ではなく、地域間格差に目くじらを立てるのは、経済学的に見て意味のないことです。自由経済の摂理に委ねていれば、地域間の(限界)生産力の格差や所得格差は、人々の自由な地域間移住、さらにはそれよりもっとスピーディーなはずの民間の資本の自由な移動によって、やがて縮小してゆくはずだったのです。

 もし地域全体としてみると平均所得が低い地域に住んでいれば、より高い所得が得られる地域に移住すればよいのです。事実、高度成長期にはそうした労働の地域間移動は極めて活発でした。それでも、経済が沈滞した地域に住み続けたいという住民がいるなら、それは所得以外の要素(例えば郷土愛)で低所得を埋め合わせるだけにたる効用(満足)を得ていると理解すべきです。だから、経済が沈滞して低所得に直面しつつも移住しない住民(物理的に移住できない人を除く)に対しては、長期的に見れば、経済的に特別な措置を講じる必要はないのです。

 目下、経済が沈滞したとされる地域に住み続ける国民から、「東京一人勝ちはけしからん」とか、「この地方経済の疲弊を何とかして欲しい」という声があるのは事実ですが、それは低所得を埋め合わせるに足る郷土愛などの効用(満足)がありながら、その上に経済的措置も上乗せしてくれ、といういわば贅沢な要求だとして、多くは聞き流すべきでしょう。東京とて、高所得を得る機会はありますが、住環境は地方に比べればそんなによいわけではなく、地方の方が誰もがうらやむほどの生活をしているわけではありません。(後略)

率直に言って、こんなことを真面目に考えている人がいるのかと驚いた。しかも、「経済学的に見て意味のないこと」だと言いきっているのにも。

経済学的な論理を前提にして言えば、確かに「移住すればよい」という選択肢が出てくるかもしれない。しかしそれはあくまで経済学的な論理のみに基づいた場合であって、人間がある土地で暮らすのに経済学的な論理だけでその選択を行っているわけではない。土居氏は、上の引用よりもさらに過激に、“過疎の地域では集団で移住してもらって集落を終わらせる”ことが必要だなどということも言っている。これが企業の経営者の個人的な意見であれば、まあそういう人もいるのか、ということでいいのだが、政府の委員なども務めていて国家意志の決定に理論的に影響を及ぼしうる人物の発言としては、さすがに見過ごすわけにはいかない。そもそもここまでいくと、ちょっと生活者としての常識を疑わざるをえない。

経済学の研究者として「経済学的な論理としてはそうだが…」ということであれば話はわかる。けれども土居氏は、経済学的な要素以外の要素を「郷土愛などの効用」などとして付随的なものとしか見ていない。上の引用を読めばわかるが、その地に生まれ、共同体の一員として育ち、暮らしを営むということ、あるいはその土地で共同体を維持していくという営みについての責任感といったものについて、氏は何ら考慮せず、ただ「効用」としかとらえていない。別に社会科学的に人間と共同体の問題を踏まえなくったって、地方では共同体で支え合いながら暮らしてるなんていうことは感覚的に理解できるものだと思っていたが、どうやら経済学的な要素のみで全てを考えようとする人も存在するらしい。

何をもって「豊か」であるとするのか。これは簡単な問題のようでいて案外むずかしい問いだ。社会で生きる一般の人々にとって、必ずしも経済学的な尺度で測ることのできる「豊か」さだけが「豊か」であるわけではない。東京に出て高所得を得て、六本木ヒルズやタワーマンションで暮らすのが「豊か」だと考える人もまたいるだろう。経済的には「豊か」ではなくとも、先祖が代々生き、そして死んでいった土地で、平穏に暮らしを営むことさえできれば、それで「豊か」だと感じる人もまたいるだろう。

その二つの「豊か」さを比べても結局は個人の主観によるわけだから、どちらが「豊か」なのかを他者が決めることはできない。経済学的な尺度による「豊か」さというものは、そういった限界を当然もっているはずだ。そして、少なくとも「豊か」さについてのそういった多様性が保障されていることが、「豊か」な社会であることの一つの現われではないか、と僕は思っている。逆に言えば、先祖代々の土地で昔ながらの生活を営むことすら許されなくなる「先進国」とはいったい何なのだろうか。

現在の日本の国家財政が問題の多い状況にあるというのは事実なのだろう。けれども、江戸期以来の集落を維持するのにかかる費用が、果たして国家を滅ぼすほどの費用なのか?経済学は素人の僕だが、東京の繁栄を見るにつけ、僕にはとてもそうは思えない。地域の多様性を失ってまで都心部を再開発することが「豊か」だなんて、悪い冗談ではないのか。

新自由主義が信用できないのは、結局その思想における「豊か」さのイメージがあまりに画一的で貧困で近視眼的であるのを、うすうす感じ取ってしまうからなのだろう。新自由主義に基づいた政策なんて、とても100年、200年先の日本社会までもを考えようとして生み出された政策だとは思えない。経済学的な意味での「豊か」さを求める企業家ならともかく、歴史的に形成されてきた社会を左右する政策立案に関わる人間の考え方がこれでは、本当に大丈夫なのだろうかという疑念を感じずにはいられない。

  • 追記(10.12.7)

これ4年半も前のエントリなんで、今からみるといろいろと不足する論点や補わなければいけない論点も多々ある。ブコメで出てたけど、現在の僕は別に「公共事業を増やせ」とか「国土の均衡ある開発を」なんて考えてるわけじゃない。また、人が雇用のある都市部に移住する経済的な合理性を別に否定しているわけでもない。僕自身は諫早湾干拓長崎新幹線にも反対だし、コンパクトシティ化にもある程度は賛成だ。

ただ件の土居氏は、もうネット上に記事は見当たらなくなったけれど、中山間地域や離島などに住む住民に対し、もはや集落を引き払うべしとまで言っていた。数百年もの間その集落で暮らし村を守ってきた高齢者を、わざわざ都会に引っ張り出してきて孤独死させるような政策を取る必要があるのか、いくら何でもそれは暴論だろってのが僕の主張だ。

とりあえず最新のエントリはこちらhttp://d.hatena.ne.jp/usataro/20101206/p2

それからこの問題に関して、もっときちんと論じたエントリはこちら

地方都市の問題と限界集落の問題 http://d.hatena.ne.jp/usataro/20080210/p2
地方都市の問題と限界集落の問題(その2) http://d.hatena.ne.jp/usataro/20080211/p1

これもおまけ
引っ越しなんて簡単にできない http://d.hatena.ne.jp/usataro/20080227/p2