歴史学の社会的意味。

大げさなタイトル付けちゃったけど、そんなに大げさな話じゃなくって。それにもちろんあくまで一般論として書いてるんで、念のため。

着実な成果っていっても、昨今よくありがちな、きっちり調べものはしてあるけど「目の前にある史料とその史料使った先行研究にしか興味ないだろ、お前」って言いたくなるような報告はやめてほしい。ゼミとか研究会って、別に報告者の“お勉強”の成果を披露する場じゃないんだから、いくら研究史や史料がふんだんに取り上げられてても、作業成果ばかりで、そこに何らかの発見や議論の構築といった、聞き手へのさまざまな対話の意志がなければ、正直なところあまり聞く価値がないと、僕は思ってる。

もちろん、作業の伴ってない議論は空論に終わりがちだし、その辺は僕もよくやらかしがちで、気をつけなきゃいけないことだ。でも別に史料翻刻でも編纂でもなく、議論のないただ表を作るためだけの作業なんて、研究としての意味はあるのかな。とくに最近、ゼミの史料講読なんかで、試訳や語句調べはきっちりやってるけど、そっから先の、史料からみえてくる歴史像への想像力をまるで感じさせない報告にときどき遭遇してしまう。あるいは、考察やってても、何のための考察なのかさっぱりわからない考察とか。そういうやつって往々にして、レジュメの分量だけは多いんだよな。なんというか、まるで頭を使ってないくせに、ただ「お勉強しました、がんばりました!」ってアピールをしたいの?みたいな。

そういう報告に対応してなのかどうか、ここ数年、ゼミでの討論のレベルが極端に低下している印象を禁じ得ない。討論の時間になっても静まりかえってしまい、せいぜい史料の些細な解釈や事実確認に終始するみたいなていたらく。ゼミでの司会者が、質問がなくて困ってる様子をよく目にする。研究史をよく知らなくっても、わかんなければ聞きゃあいいのに、と思わされる場面に何度も遭遇する。そういうことを聞けるのがゼミの場なのにな。結局そういう人は、ゼミの場で自分が知らないことをさらけ出すのが怖いんだろう。

そういう人って、研究を、あくまで個人の問題、「お勉強」としてしかとらえてないのかもしれない。まあそれなら、他者からの批判も助言も必要なくって、ただ“立派な”レジュメを提示して、粛々と自分の報告が終了して、自分が「お勉強」してるってことをアピールできればそれでいいんだろうから。でも学問である以上、そんなのでは許されないんだよな、当たり前だけど。

そういう人には、一度、歴史学研究の現代社会における意味についてどう考えているのか、じっくり話を聞いてみたいもんだ。いや、皮肉じゃなくって本気で。

なんか今日はちょっぴり毒舌モード?(笑)