“うんざり”の続き。

例の兄弟喧嘩の話で思い出したことといえば、敵意や悪意がまだ一対一の問題であるのならともかく、それがいつの間にか自分の属してるグループのヘゲモニー争いになっちゃうところ。これもなんかうんざり。

僕自身は、ギラギラした態度――たとえば野望とか上昇志向とか――だって、その人自身の努力によってプラスの方向に向かいそうなものなら、必ずしも否定的に見ることはない。その人ががんばっているんだなあということを見るのは、僕にとっては刺激になるし、励みにもなる。でも、ギラギラした態度が足の引っ張り合いや権力闘争に向かった瞬間に、うんざりした気持ちになる。

人間関係は食うか食われるかだなんて考えてる人もいるし、いわゆる“女の子のランチグループ”みたいに表面的な仲の良さとは裏腹に陰口と足の引っ張り合いを繰り返すグループもある。そんなの、僕はもう中学生の時からうんざりしてきたのに、いい大人になっても未だにそういうことやってる人をときどき目にする。もううんざりだとは思わないのだろうか。

人を暴力や精神あるいは情報によって、支配したり独占したり、あるいは排除したりすること、そしてそれを梃子に集団の中で自分の存在を維持しようなんてことが、僕は大嫌いだ。たぶんそのことと裏腹の関係にあるんだと思うんだけれど、人から過度に依存されることだって、僕はいい気はしない。支配にしろ依存にしろ、そこにあるのは力の論理だけ。人間同士の対等な立場での信頼関係は存在しない。力を背景にした人間関係なんて、スタイルとして醜悪そのものだ。

ただそういうのって、トラブルが一対一である限りにおいては、そんなに深刻ではないような気がする。一対一である限り、直接言いたいことを言い合えば、最終的には理解できるような気がする。で、人に対する敵意や悪意っていうのが抜き差しならない状況になるのは、一対一の問題じゃなくって、三人以上の人間関係の問題になるからじゃないのかなと、そういう気がしている。

他人に抱く敵意や悪意なんて、コンプレックスとか心の傷とかその他よんどころない事情によって本気で思ってるごく一部の人間以外は、くだらないことだって頭ではわかっていると思う。でも、そこに三人以上の人間が関係することによって、いったん抱いてしまった敵意や悪意を引っ込めることが難しくなる。

そういう敵意や悪意を作用させるによって機能しているのが、たとえば中学生の仲間グループだろうと思う。信頼関係によって築かれていたはずの人間関係が、不信や疑いによって脆くも崩壊する。中学生の頃によくあったいじめなんて、その典型だと思う。

ばかばかしいと思っていても、自分がいじめられたくないから、いったん成立してしまったいじめを介したグループからなかなか抜け出せない。で、沈黙すること、リアクションをとらないことによっても、排除された人への様々な形での暴力に加担してしまうことになる。

そんな、醜悪な原理にもとづく人間関係が、どうやって成立するんだろう?その理由は僕にはただちにはわからないけれど、少なくともいじめを内包せざるをえないような人間関係は、信頼関係に基づいて成立してるんじゃなくって、権力的な力学に基づいていることだけは確かだ。

もう、そういうのは見たくないんだけどな。「この歳になっていまさら無邪気に人を信頼するなよ」っていうのも経験から生まれる正論ではあるし、僕だってそのくらいのことはわかっているつもり。けれど、どうせなら人を信頼して暮らしていきたいと願っている。