「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」

1984年、日本。監督・脚本は押井守。ちなみに原作が高橋留美子ってことはわざわざ書かなくてもいいかもしれないけど。僕は、TV版の「うる星やつら」は当時リアルタイムで見てたから、ラムやあたるなんかのキャラ自体には抵抗なく入っていけた。けれど、率直に言って「うる星やつら」の設定を借りたまるっきり別の脚本だって考えた方がいいんだろうな。

この映画、伝説的作品になってるって情報以外何も知らずに見ちゃった。正直驚いた。これって1984年でしょ?当時のこの映画の評判ってどうだったんだろ?

この映画、いろんな解釈の余地があると思うんだけれど、1984年に製作されたってことを2005年になろうかとする現在から考えるなら、僕はこの映画に近未来の、つまり現代の高度資本主義社会の姿を想像させられた。

「うち、ダーリンが好きなんだもん。ダーリンと、おかあさまやおとうさまや…さんたちと、ずーっとずーっと、楽しく暮らしていきたいっちゃ。」「なによ、それじゃ要するに今と一緒じゃない。」「だから、今とっても幸せだっちゃ。」

愛する人と一緒にいて、たらふくものを食うことができて、幸せな営みを送っていて、そこに不満がなければ、町の人々が消えてってしまうとか時空が歪んでるとか、少々の―というか相当の―不条理があっても目をつぶり、目をつぶることによって永続する“幸せ”に身を委ねてしまうようになるのかもしれない。

今という時が幸せであるならば、そこから時間という概念は抜け落ちていく。その幸せを保証するものが物質的な側面におけるコンビニであり、精神的な側面における恋愛であり、また仲間や家族との幸せな生活だとするのならば、それ以外の人間はいなくなってもかまわないし、町が廃墟になってしまってもかまわない。むしろ、そこに疑いを持つことの方こそ害悪だ…

これって、パートナーたる異性(恋愛)や仲間(家族愛や友情)という関係以外には社会における他者への共感が失われつつあり、コンビニという形式で物質的な欲望が満たされさえしていればコンビニを支える背後のありとあらゆるものがどうなっても別にかまわないという、現代社会における人々の認識のあり方そのもののような気がしてならなかった。

あたるの浮気性が、そういった予定調和を破壊し“リアル”へと引き戻す作用を持つ一方で、「責任とってね」という、恋愛関係に彼を回収するラムの言葉が発せられることによって、結局は現実に引き戻されるという設定もおもしろい。

もともとそういう資本主義社会のありようのメタファーとしてこの映画を描いているんだとしたら、この時代のアニメとしては飛び抜けたレベルとして存在してたんじゃないかなあと思った。なんでこんなにこの映画を深読みしたくなるのかわかんないけど、そういうことをついやりたくなっちゃうようなきっかけを与えてくれるってだけでも、この映画はいい作品なんだろう。