ツイッター連動は解除。

直接記事を書くのは久しぶりかもしれない。2月から開始していたツイッター連動だが、正直こんなログを残しておく価値あるんだろうかという気が大きくなってきたのと、僕とやりとりしてた他の人は残す気がないかもしれないということ、そしてともかく同じようなタイトルばかりできわめて記事が読みづらい、読む気を失せさせそう、という気がしてきたので、やはり連動を解除することにした。それにあわせて、ツイッターの記事も削除した。

ツイッターそのものはこれからもぼちぼちやっていきますので、ここにまとめつぶやきが載らなくなるだけ、ということで。

ツイッターとどう連動させるか。

ツイッターをここと連動させるようになってから、いろいろと試行錯誤している。その日の分のツイートをここにまとめておく設定にしたんだけれど、実はそのことで今ちょっと思案中。ツイッターを使い始めてわかったのは、ほんとにただの呟きというかそういうものでしかないツイートもあって、そんなのはまとめを残すまでもなく、むしろ流されていった方がいい。

はてなダイアリーのツイートまとめはどんなのも全部まとめちゃうんでちょいとやっかい。でも、ブックマークのコメントをツイッター経由で残せるのは結構貴重。そこら辺の塩梅をどうするかということで、とりあえずサイドバーにツイッターを表示させることにした。

これの様子を見て、ツイートまとめをどうしていくか考えよう。

2011年03月01日のツイート

ツイッター連動

そういえばこちらの方に全然書いてなかったのでした。みなさんあけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

ところで、こういう体たらくなので、ツイッターはてブを連動させて、さらにそのコメントをここに載せることで、ブログとしての興行を図ろうと考えた次第です。正直なところ、まだツイッターの使い方もよくわかってないような状況なので試行錯誤だけれども、よろしくお願いします。

2011年02月04日のツイート

さようなら、うさ吉。

ブログペットのサービスが終了した。それに伴って、右側に設置していたブログパーツも削除した。ついでに、すでにサービスを止めていたらしい0系新幹線ブログパーツも削除した。

昨日一昨日と採点作業に追われてバタバタしていたので、うさ吉の最期を看取ることなく、機械的に終了してしまっていた。うさ吉はいつの間にかいなくなってしまって、読み込まれないブログパーツの残骸だけが残っていた。まるで、飼い猫が最期の旅に出たあとの、抜け殻になった居場所みたいな感じだった。せめて、メモリアル的な画像だけでも残せるようにしてくれればよかったのにな。

というわけで、さようなら、うさ吉。

しかしおもしろいな

突然のホットエントリ入りで、今まで開店休業状態だったブログのアクセス数が3桁増えた。ちょうど仕事も一段落ついたところだし、ブログを再開するにはいいきっかけだった。

今回ブコメでいろんな意見を見ることができて、なかなかおもしろかった。で、まず思ったのは、案外土居氏の議論に乗ってる人が多いんだなという印象を持った。確かに地方への過剰な公共事業は、諫早湾干拓長崎新幹線など(おっとどれも長崎だw)ずっと批判の対象になっている。だから地方に税金を投入すること自体に批判的な立場の人が多くなってるのかもしれない。そういう意味では、「公共事業肯定論」への反射的な拒否じゃないのかと想像する。ただ僕はそんなこと一言も言ってないので念のため。

けれども必ずしもこれが人々の「経済リテラシーの高まり」かというと、ちょっと違う気がする。「地方はお荷物」「都会が地方を食わせている」意識の垂れ流しでしかない意見がけっこうな数を占めていた。こういう垂れ流し系の意見に対しては、都市の自立性に関するこの意見。
id:gerongcha 都市は労働力を生産できないから単独では存在できないよ。都市の存続には必ず労働力の供給源として地方が必要になる。国内である必要はないけど。
というブコメが参考になる。実際、高度成長期には東北などから若い労働者が大量に流入してきたおかげで首都圏の経済は発展していったわけだし、90年代以降も東京だけは移入人口が増え続け、東京の経済規模は維持されている。労働力だけでなく水資源や電力も地方から供給されている。いわば地方は労働力を供給する植民地であり、巨大化した本国が東京であるとも言えるだろう。都市が周辺地域に支えられて初めて成り立つっていうのは、考えてみれば当たり前のことなんだな。現代だって、労働力としての移民促進論が現在の経済界の一部で主張されてるわけで。

重要なのは、戦後の経済発展は集権的な中央政府による政策誘導的な側面が強いということだ。つまり経済的な原理のみに基づいて都市への人口集中が起こったわけではないということ。だから、経済学的な原理だけでこの現象を理解しようとするのは、歴史的な経緯を無視してるということになる。

次に、自分が転勤族一家や移住を繰り返したから、故郷なんて感じないという個人的感想がいくつかあった。別に個人的感想の表明にとどまっている限り文句もないのだが、それは各人の価値観であって人に押しつけるものではない。そもそも僕自身が親の転勤で引っ越しを繰り返してきたし、しかも母親の故郷はかの軍艦島で、すでに人の住む場所としては失われている。さらに言えば、僕はもう東京に住んで20年になるので、正直地方のことの方がわかってないんじゃないかとすら思っている。けれども、「今さら移住できない」という高齢者の論理は、そういう個人的事情とは関係なく考えていくべき問題だと思っている。

なんか散漫になってしまったけれど、書き始めるときりがないのでこの辺で。